落語のはなし(千代田区立内幸町ホール)

落語の起源についてはいろいろな説がありますが、戦国時代に武田信玄や豊臣秀吉などの戦国の武将の話し相手をした曾呂利新左衛門(そろりしんざえもん)などが書いた『御伽衆』(おとぎしゅう)という面白本や浄土宗の僧侶だった安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)が元和九年(1623年)に完成した『醒睡笑』(せいすいしょう)という書物がその雛形と言われています。
戦国武将も娯楽を欲していたのですね。

噺家の起源については、江戸時代になってから大坂の米沢彦八、江戸の鹿野武左衛門、京都の露の五郎兵衛などが人前で辻噺(つじばなし)という形で今の落とし噺のようなものをやったものが現在の職業落語家の始まりといされております。

その後このような噺しは水野忠邦による天保の改革により、芝居小屋の浅草移転や寄席の閉鎖に遭ってすたれるのですが、江戸の後期になってから町の大工の統領だった立川焉馬(たてかわえんば)またの名を烏亭(うてい)焉馬という人が料理屋の二階などに人を集めていわゆる落とし噺しをやったのが現在の寄席にあたるものとされています。
この立川門下からは三遊亭円生や三笑亭可楽、朝寝坊むらくといった落し噺を専門とする職業芸人が多く輩出しました。

とくに三笑亭可楽(さんしょうていからく)という人の門下からは三遊亭圓生や林屋正蔵、船遊亭扇橋といった現在の屋号(柳家とか三遊亭とかいう呼び名)に通ずる演者たちが続いているそうです。

明治・大正時代には、三遊亭圓朝が近代落語を完成させ、人情噺しや怪談物といった語りの落語の発展に大いに寄与しました。
その後、三遊派(三遊亭圓朝の一派)と柳派(柳家燕枝の一派)の分裂を経て落語という演芸は様々な団体を形成しながら発展し、現在の落語協会や落語芸術協会などに受け継がれているのです。

さて、内幸町ホールはそのキャパシティと音響の良さから多くの噺家さんから勉強会やネタおろしの会として利用されており、江戸・上方そして流派を問わず多くの噺家さんに愛されてきました。

その後、より大きなキャパシティの会場に移られるケースが多くなっておりますが、内幸町ホールを卒業し、大看板となったた噺家さんたちには「内幸町ホール特選落語会」のシリーズで再び内幸町の高座に上がっていただきます。
次回は来年1月下旬に柳家花緑師匠、春風亭一之輔師匠の会を2夜連続で予定しておりますので皆様どうぞお楽しみに!